えっ!? 「賢い子を育てる」だって!?
2018-11-01 14:34:04
生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。
本日のテーマは,「「賢い子を育てる」言説を〈相対化〉する!!」です。
ということで, 「鍛地頭-tanjito-」ならではの考えを披瀝させていただきます。
ただし,当塾の属性から,教師教育に中心の視点を据えた書き方の体裁を採っていますが,人世に普遍化できる内容だと自負しています。
ご批正をお願いいたします。
光を浴びる大きな木(提供 photoAC)
「山梨県側から見える富士山と,静岡県側から見える富士山と,どちらがより美しく見えるのか?」
かつて,こうした疑問を扱う某局のテレビ番組を目にしたことがあります。
(注:静岡県民の皆さん,「なぜ山梨県を先に書くのか!!」なんて怒らないでくださいね。他意はございませんから(笑))
広島県民で,かつ,新幹線に乗車する度,天候に恵まれず,美しい富士山を真面に拝んだことのない雨男の私からすれば,「どちら側から見てもキレイなんだろうなあ。」「どちら側からでも見てみたい。」となるわけです。
同じ富士山でも,見方が異なれば,異なった形状に見える。
しかし,同じ富士山だからこそ,見方が異なれど,美しい,というところでしょうか?
そうであるならば,様々な方角から富士山を仰いで見る。
その時,富士山は名峰としてのホンモノの〈美〉を放つはずです。
そして,それは〈富士山〉が内包する〈美〉であり,〈富士山〉そのものであるのです。
【Reference】
視点取得(perspective-taking)とは,他者の視点に立つことです。そのためには,自分自身のものの見方を絶対視せず,相対化・対象化することが必要になります。この視点取得は,とりわけ他者とのやりとりにおいて必要なメタ認知です。というのも,相手に何かを伝える際には,相手が何を知っていて何を知らないかを知ることが欠かせないからです。相手の知っていることをわざわざ説明すると,うんざりさせてしまうかもしれませんし,逆に,自分が知っていて相手の知らないことを,説明の中でうっかり省略してしまうと,相手には理解できなくなってしまいます。
引用:三宮真智子(2018.9),『メタ認知で〈学ぶ力〉 を高める 認知心理学が解き明かす効果的学習法』 Topic8 「視点取得」とメタ認知, 北大路書房,p.30 ・・・a
世界文化遺産(提供 photoAC)
「私はフランス人よ。」
字義どおりに(テクストとして)とれば,この発話主体は,「フランス人」ということになります。
しかし,次のような場合はどうでしょうか? 空想してみてください。
ある一つの場面を設定してみましょう。
さあ,この場合の「私はフランス人よ。」を字義どおりに解釈して良いかどうか?
出身国を訊かれたのであるならば,何ら不思議はないのですが,ここでは,「料理の腕前」を訊ねられているのです。
そうですね。
もう,お分かりのように,世界の三大料理の一つを代表する国,フランス。
Bは「フランス人」であることを誇張しながら,実は,(私は世界の三大料理の一つを代表する国,フランスの出身なのだから,)
「料理は上手だわ。」
「料理には自信があるの。」
と言ったのです。
つまり,「私はフランス人よ。」の言表は,AとBとの会話の中で用いられる時,その(社会的)文脈(context)の中で,
「(私は)料理は上手だわ。」
「(私は)料理には自信があるの。」
を意味するようになったと言えます。(コンテクスト主義)
友人を自宅の夕べのパーティーに招いたMasan(私のニックネーム(笑))は,遠慮して食事をしていないと思われた友人にそっと語りかけます。
「もっと食べなよ。遠慮せんでもええで~。」
その友人からの回答は,次のようなものでした。
「お昼ご飯をたくさん食べてきてしまったからね。」
つまり,この友人の言表は,「No thank you.」を意味しているのです。
【Reference】
フランソワ・レカナティ著・今井邦彦訳(2006.1),『ことばの意味とは何か 字義主義からコンテクスト主義へ』,新曜社
フランス料理(提供 photoAC)
さて,皆さんは「ゆとり教育」とお聞きになって,どのようなイメージをお持ちになりますか?
「観察や実験」「プレゼンテーション」「ディベート」(以上,(+))/「学力低下」「みんな平等」「円周率3」「うすい教科書」(以上,(-))
将又,
「会社で使いものにならない。」(-)
もしかして,
「うすい(学校の)学習指導」(-)
なんてことはないでしょうね?(笑)
私は,ここで,「ゆとり教育」に纏わるプラスイメージ(+)とマイナスイメージ(-)とを闘わせ,勝負の決着を付けようとしているのではありません。しかし,往々にして,人世というものは,「ゆとり教育」をマイナスイメージ(-)で捉えてはいませんか? (私の洞察に誤りがあるのならば,ご海容ください。)
私が申し上げたいことは,「ゆとり教育」言説の〈相対化〉ということなのです。
私は「ゆとり教育」を「肯定・否定の思考の台座(フレーム)」から幽体離脱させて(笑),それらを俯瞰したいだけなのです。そして,そうした行為が大切だと考えているのです。「「ゆとり教育」を受けた世代は,発想が柔軟で,多様性があり,我が社にあって必要な人材だ。」という声も,一方では耳にしますからね。つまり,「ゆとり教育」のメリット(テーゼ)とデメリット(アンチテーゼ)とをしっかりと考え合わせ(〈相対化〉し),もう一つ上の段階の「教育」(ジンテーゼ)を模索(アウフヘーベン(止揚・揚棄))することが重要だと考えるのです(ヘーゲルの弁証法風)。そうした意味においても,今期学習指導要領の改訂は,「教育」という名のジンテーゼを求めようとしていると言えます(その際,系統学習を「正(テーゼ)」と置くならば,問題解決学習が「反(アンチテーゼ)」になりますね)。
こうしたものの見方・考え方は,言説の権威性を〈相対化〉し,それからの解放を勝ち取る営為につながると考えます。
「言説(discours)」とは,なかなか説明が難しいのですが,「特定の共同体が生み出す(その共同体独自の)社会的・文化的な文脈(規定・制約)による言語表現」ということになるのでしょうか。詳しくはミシェル・フーコー(Foucault,Michel)を繙いてみてください。
そして,「言説(discours)」は内在的に権威を持ち得るものと考えます。
29年間の教員(教育行政職員)生活の中で,よく耳にする言表がありました。
「児童のため」「生徒のため」
これらがそうです。これらの言表を耳にすると,本能的にというのでしょうか,教員というものはこれらの後に続く言表を従順に実行しないといけない気持ちになるのです。
「児童(生徒)のため,授業改善に励む。」
「児童(生徒)のため,親身になって話を聴く。」
ところが,実際のところ,学校現場では「児童(生徒)のため,○○しない(してはいけない)。」(言説)の方が多かったような気がします。
「児童(生徒)のため,受験指導はしない。」(=児童・生徒選別化反対言説)
この言表などは典型でしょうね。受験が必要でない児童・生徒もいれば,必要な児童・生徒がいるにもかかわらず。
しかし,こうした言表がある学校の教員集団において大勢を占めるようになると,「受験指導をしよう!」と言い難くなるのです。これが言説の持つ権威性の一例です。
そこで,愈々,本題です。
近頃,私が意識しているからか,教育関連書籍・雑誌やブログなどの中で,「賢い子を育てる」という言表が目に付くようになりました。この言表自体に問題性を感じるわけではないのですが,この言表に次の言表が加わるとき,問題性というよりもむしろ不快感を覚えてしまうのです。言説そのものだけではなく,その発話行為そのものに。
「東大・京大に合格する」
何も東大・京大,東大・京大関係者及び東大・京大を目指して受験勉強に励んでいる受験生等を揶揄・批判しているのではありません。お間違えのないように。
「賢い子は東大・京大に合格する。」・・・A
「東大・京大に合格する子は(地)頭が良い。」・・・B
これらの言説を〈相対化〉(≒メタ認知)しないで,これらの言表を使用する行為(方々)に不信感が拭えないのです。
単純に(考えてはいけないのかもしれませんが,)この言表を裏返したならば,どうなりますか?
「東大・京大に合格しない子は賢くない((地)頭が悪い)。」・・・C
(A~Cのテクストが,また,どのようなコンテクストの中で用いられるかによっても〈相対化〉の結果は異なるのですが。)
このような在り方では,真面な教員(〈ホンモノの教員〉)など務まりません。少なくとも私はそうではなかった。
このような在り方では,東大・京大に合格していく生徒を含め,全ての(乳幼児・)児童・生徒が可哀想でならない。
「賢い(さ)」って何ですか?
「地頭」って何ですか?
教育界のエポックメーキングとも言える(私はそのように思わない)今の時代だからこそ,「賢い子は東大・京大に合格する。」「東大・京大に合格する子は(地)頭が良い。」に係る言説を〈相対化〉(≒メタ認知)しなければならないのではないのでしょうか? そのように思うのです。そして,その行為の先には,〈ホンモノの教員〉像が見えてくると確信しています。
さあ,そこで,「賢い子は東大・京大に合格する。」「東大・京大に合格する子は(地)頭が良い。」言説を〈相対化〉することにしてみましょう!!
このことについては,次の当塾のBLOG記事「「賢い子を育てる」って!?―「東大・京大合格」と連結する言説を〈相対化〉する―」(On-line教員養成私塾「鍛地頭-tanjito-」)をご覧ください。
学力低下(提供 photoAC)
教員が貫く姿勢の大原則は「一人ひとりの乳幼児・児童・生徒を大切にする」,このことに尽きると思います。
県の教育行政にいるときも,学校にいるときも,生徒指導の担当者として,「結局,生徒指導って何ですか?」と訊ねらた時には,必ず「(究極的には,)一人ひとりの(乳幼児・)児童・生徒を大切にすることです。」と答えていました。私の信念でもあります。
そこで,上述のBLOG「鍛地頭-tanjito-」の記事(「賢い子を育てる」って!?―「東大・京大合格」と連結する言説を〈相対化〉する―」)を読んでいただけるものとして,付言します。
まずは,引用からです。
さて,多くの育児書では月齢や年齢別に特定のステップを踏むタイプの育脳が主流のようですが,私からすると,子どもの可能性が伸び悩むのであまりおすすめできません。
たとえば,「何歳で○○はまだできなくて当然」といった認識で子育てをしたとしましょう。すると,本当はそれができるかもしれないという子どもの可能性を遮ることになってしまいますよね? あるいは,「何歳までに○○ができて当然」という考え方に立った子育てでは,どうしても親に焦りが出てしまうものです。
子どもは同じ月齢・年齢であっても,みんなが横並びで同じ成長曲線を描くということはありません。個人差はあって当然なのです。だからこそ,育児のステップに惑わされるのではなく,目の前のお子さんを見つめて,必要な手助けをすることの大切さを,私は脳科学者として声を大にして皆さんにお伝えしたいのです。
引用:茂木健一郎(2017.10),『5歳までにやっておきたい 本当にかしこい脳の育て方(電子書籍版)』,株式会社日本実業出版社,Ver1,http://a.co/5HDC0uB,下線は小桝が施した。以下,同様。 ・・・b
遊ぶ赤ちゃんと泣く女性(提供 photoAC)
引用のとおりだと思います。29年間の教員(教育行政職員)生活において,(学校現場だけで)約9,000人の(児童・)生徒を指導し続け,痛感していることは,例え同じ発達段階にあっても発達課題をクリアできるか,否か,できるとしてどのようにクリアしていくかなど,一人ひとりの児童・生徒は全く異なっているということです。万一,教員が成長のステップ・タイプ別に断定的な考え方でこどもの態様(特徴)を十把一絡げに捉えているのならば,その行為は一人ひとりのこどもの特性を見落とす元凶となってしまいます。当然のこと,そのような在り方では教員など務まりはしません。
仮に,その断定的なこどもの捉え方(態様の描写の仕方・語り方)が帰納的に特定の発達段階にあるこどもの態様(特徴)を捉えたものであるにせよ,―抑々,帰納法的な考え方でこどもを捉えること自体,捨象されるこどもの(特性の)存在を蔑ろにするわけで,許されない行為なのですが―それを解する側が,帰納法的な考え方やそれによって抽出された抽象的なこども像(固定化・視覚化されたこどもの成長ステップなど)を〈相対化〉できなければ,鵜呑み現象が生起し,上述の引用のように「子どもの可能性を遮」ったり,「親に焦りが出」たりしてしまうのです。そうして,残念なことに,そのような現実が私の目前で展開してきたし,現に,今も展開しているのです。
認知発達に個人差があるように,メタ認知の発達にもかなり大きな個人差があります。しかしながら,認知能力もメタ認知能力も発達のプロセスの中で徐々に高まっていくという点は共通しています。(中略)
この前操作期が終り,具体的操作期に入ると,自己中心性からの脱却つまり脱中心化(decentration)が起こり始めます。脱中心化によって子どもは,自分のものの見方・考え方を対象化することができ,他者の視点をとること,すなわち視点取得ができるようになるわけです(Piaget,1970)
ピアジェとインヘルダー(Piaget & Inhelder,1948)は,「3つ山問題」を用いて,このことを示しました。(中略)
すると,4歳未満の子どもは,そもそも課題を十分に理解できませんでした。そして,4~7歳までは自分の視点と他者の視点を区別できず,自分に見えている通りに人形にも見えているという答え方をすることがわかりました。7歳頃からは,ようやく他者の視点をとれるようになり,自分の見え方と他者(ここでは人形)の見え方を区別して人形から見える風景を答えることができたのです。なお,認知発達には個人差が大きく,また,文化や時代の影響も受けやすいため,ここで紹介した年齢は,1つの目安として考えてください。
引用:前掲書a,pp.30-31
長い職歴の中で,(児童・)生徒を見てきて,これまた認知発達の大きな個人差については痛感してきたところです。
このように,一人ひとりの乳幼児・児童・生徒の成長には大きな個人差があるにもかかわらず,保護者というものは,どうしても他人のお子様と自分のお子様とを見比べ,一喜一憂されるものです。
そういう意味において,上記引用(三宮2018.9,pp.30-31)中の尚書きは,ある意味,「認知発達(成長)の個人差」に注視せよという警鐘であるとともに,それ以前の記述に見られる年齢幅に読者の思考が固定化されないための道標でもあるわけです。
こうした著者のお心遣いに,私は学問への真摯な態度を学ばせていただくのです。
副塾長と娘さん
(次回につづく)
すかさず! 大きな声で! スマイル!!
私(たち)は,あなたのことを誰よりも精一杯愛している。