人と人とをつなぐ「あいさつ」―〈つながり〉を求めて―

2018-05-14 13:16:51

 

すかさず! 大きな声で! スマイル!!

人と人とをつなぐ「あいさつ」―〈つながり〉を求めて―

私(たち)は,あなたのことを誰よりも精一杯愛している。

 

 

「生きる自分への自信を持たせる
鍛地頭-tanjito-」副塾長の住本小夜子です。

 

 

前回の記事更新から日が空いてしまいました。
ごめんなさい。

 

塾長は,ホームページの作成に頭を抱え,
私は,教育関連の勉強に加え,
心理学とコミュニケーションの勉強に追われる毎日。

 

このような忙しくも幸せな日々を過ごしている先日のことでした。
ある友人から次のようなお電話をいただいたのです。

 

ねえ,聴いてよ~~!!
朝,幼稚園に息子を連れて行った時のことなんだけど・・・。

 

そうそう,そうよ・・・

 

いつものように,担任の先生が息子を迎えに出てくださって,
息子の家庭での様子を話していたら,
それまでご機嫌だった息子の顔色が急に険しくなっちゃって・・・。

 

いや,担任の先生が原因ではなくてね・・・

 

「見たことのない人がたくさん来られて,びっくりしたね~。」って,
担任の先生がおっしゃるから振り返ったのね。
そうしたら,中学生が10人くらいと,引率の先生がいたの。

 

なになに?・・・

 

そりゃ~,無言で大勢が背後に立っていたら,誰だってびっくりするわよ!!
だって,誰一人,あいさつもしないで,そこにつっ立っているんだもの!!

 

そうそう・・・それでね~

 

息子を預けてその場を立ち去る時に,私から,中学生と引率の先生に
わざと大きな声で「おはようございます!」と言ってやったの。
そうしたらどうよ!
それに,返してくれたのは,私の近くに立っていた3人の生徒だけ!!
その場にいた引率の先生ときたら,
私と目が合っているのにもかかわらず,完全に無視だったわ!!

 

そうよ!!

 

ねえ,これって,おかしくない?!
中学生は,体験活動で来たのだと後で知ったのだけれど,
幼稚園にお世話になるというのに,
対応されていた先生どころか,園長先生にも,
もちろん,こどもを預ける保護者,活動の対象となる大事なこどもにも,
全くあいさつしないのよ?!

 

「先生」がお手本となっていない現実を目の当たりにして,
なんだか,とても悲しく思えたし,
【本当にこれでいいの?!】っていう違和感というか,嫌悪感というか,
不信感というか,…なんて言ったらいいの・・・恐怖感さえ覚えたわ!!

 

旧「鍛地頭-たんじとう-」では,
教員採用試験に合格するだけではなく,
〈ホンモノ〉の教員を育てる」ことを一番の目的としていました。
だから,「自分からあいさつができる教員」を目標の一つに掲げていたのです。

 

 

人と人とをつなぐ「あいさつ」―〈つながり〉を求めて―

【「あいさつ運動」の光景】

 

 

というのも・・・

 

現役時代の塾長は生徒さんたちに,
「あいさつ(をすること)・服装(を整えること)・時間(を守ること)」
を徹底して指導したと言っていました。
「それが自分(塾長)の信念だった。」と。

 

なぜならば…

 

「当たり前に守る基本的なことだけど,
その当たり前がなかなかできないんだ。
生徒も教員もね。」

 

理由がある場合を除き,
これらが守られていない生徒さんには,必ず徹底的に厳しい指導をしたそうです。

 

生徒さんたちには,
「あいさつ・服装・時間」ができていなかったら,
必ず厳しい指導をする理由を,事前にしっかりと説明しておいて。
特に,ホームルーム開きの時,保護者のいらっしゃる前でも説明したと。

 

注:ここがポイントだそうです。かつ,塾長自身もしっかりと守ったそうです。

 

「あいさつ・服装・時間」は学校目標や,
その下位目標である学年の指導の目標,
分掌(生徒指導係や進路指導係など)の指導の目標,
ホームルームでの指導の目標と違(たが)うものではない。
それらの目標は児童生徒を良くするため,児童生徒と共有する,
人として当たり前の基本的な目標だ。

 

つまり,教員個々人の目標でもあるわけで,
児童生徒と目標を共有することは大切なことなんだ。
(共感的人間関係を形成する。)

 

しかも,教員というものは,各学校の掲げる目指す児童生徒像の下,
絶対にこの点だけは(児童生徒が)逸脱したら,徹底して指導する
というものを持っていないといけない。

 

もちろん,いろいろと指導することはあるのだが,
特に」とするラインを持つことが必要だ。
指導が一貫し,徹底するからね。
それを粘り強く,丁寧にやる。

 

児童生徒も○○のラインを外れたら,
先生たちに絶対に指導されると思うと,
少なくともそのラインを守るようになる。

 

だから,人として基本的な目標である,
「あいさつ・服装・時間」
を設定したわけ。

 

その目標はたくさんでなくて良い。
よくあって3つまでだ。
たくさん目標を設定したって,生徒も守り切れないし,
教員だって十分に徹底した,粘り強く,丁寧な指導ができなくなる。
「選択と集中」というのかなあ。

 

執拗だけど,その他の指導を放棄するという訳ではない。
特に」必要な指導は徹底するってわけだ。

 

理由を含め,そのことを児童生徒・保護者等に事前によくよく説明し,
実際,逸脱した児童生徒には徹底した指導をするんだ。
実際に指導することが大切!!
「まあ,良いか・・・」は絶対ダメ!!

 

指導すると言ったことは,徹底して指導しないと,
児童生徒は,
「なんだかんだ先生たちは言っているけど,結局は指導しないんだ。」
と思ってしまう。

 

ましてや,
「指導して,生徒に反抗されるとたいぎ~~~から,見逃そう(=指導しない)。」
は絶対に,絶対にダメ!!

 

そのような先生には,
「(あなたには)児童生徒を良くしようという気がないのですか!?」
と言ってあげる。

 

それも学校総体として,(どんな指導でも)組織的に行うのが良い。

 

したがって,
「「あいさつ・服装・時間」は当塾でも組織的に,徹底的にやるぞ!!」
という結論だったのです。

 

さらに言えば,

 

とても残念なことにね,世間から見れば意外なことかもしれないけれど,
あいさつができない教員って,結構,いるんだよ
だからこそ,〈ホンモノ〉の先生をつくるためには,
ある意味,ちょっと悲しい目標だけど,
「あいさつ・服装・時間」をやるんだ!!

 

と強い思いで語っていたのです。

 

 

先程の電話の友人は,
教員として,また,1人の大人として,
こどもの手本となるべき人が,
あいさつをしないことに驚きを隠せなかったし,落胆したのですね。

 

そして,「鍛地頭-tanjito-」の基本方針を知っていた友人は,
当塾に自らの胸の内をぶちまけるために架電してきたのです。

 

先程の体験活動の話に戻りますが,
あいさつをしない先生と行動を共にする生徒は,
あいさつをする習慣がないのだから,
日常の行為として,あいさつをしなくなるのは当然です。

 

たった1人の先生があいさつをしないだけで,そんな断定的な表現をしなくてもという声があるかも。
でも,その先生を除いた他の先生たちが,
「すかさず! 大きな声で! スマイル!!」
とばかりにあいさつをする集団だったら,
友人が落胆するような状況が現実に生起するなんて思えません。

 

上記に関して,ミラーニューロンが関係していると考えたらどうでしょう。おもしろいかも。

 

 

 

 

さて,そのような出来事があった矢先,
一昨日のことですが,息子が上機嫌で帰宅しました。

 

息子:「かあちゃ~ん!! ただいま~!!」
私 :「お帰り~」
息子:「これみて~」

 

そう言って,ランドセルから取り出してきたもの。

 

 

人と人とをつなぐ「あいさつ」―〈つながり〉を求めて―

【学校からいただいた「あいさつお手本賞」】

 

 

全校朝会で校長先生から発表され,
各学年5名ずつ,この賞をいただいたそうです。

 

これを見て,私は素直に嬉しい気持ちになりましたし,
息子と一緒に喜びを分かち合いました。

 

「すかさず! 大きな声で! スマイル!!」で。

 

それとともに,
私が小学生時代に地域で取り組んでいた「あいさつ運動」
を思い出しました。

 

 

私が通っていた小学校では,
地域が一体となって「あいさつ運動」に取り組んでいました。

 

注:現在でも,いろいろな自治体・地域・学校等で取り組んでいらっしゃると思います。

 

登下校時はもちろん,遊んでいるときも,
「外出しているときは,地域の人だけではなく,すれ違う人すべてに必ずあいさつをしましょう!」
と指導を受けていました。
地元の方ではない方にも,
地元の人(こどもも大人も)みんながあいさつをして声を掛けるのです。

 

実を言うと,
地域全体がこのようにあいさつに溢れることが,
特に,こどもの安全と防犯にも役立っていたのです。
老若男女問わず,地域全体であいさつをすることで,
どこに誰がいるのか,どこで誰と誰が遊んでいるのかなど,
周囲の大人が,こどもの居場所を把握することができ,
こどもはこどもで,
「どこにいても誰か(大人)が見てくれている。」
という安心した心理になるのです。

 

地域の「あいさつ運動」とともに,
家庭でもあいさつを欠かさない環境で育った私は,
あいさつをすることが当たり前であり,
その必要性と重要性を骨身に染みて感じています。

 

ですので,
息子や娘に対しても,
お腹にいた頃から,あいさつ(「おはよう」・「おやすみ」など)をしていました。
生まれてからも毎日欠かさず,
どんなに忙しくても,笑顔であいさつをすることを続けています。

 

 

このように,「あいさつ」の必要性と重要性を再認識した私は,
いつものように「あいさつ」について,辞書的な意味を調べてみました。

 

【挨拶とは】
1 人と人とが出会ったときや,別れるときに交わす儀礼的な動作や言葉。
 また,その言葉を述べること。相手に敬意・親愛の意を示す行為で,対人関係
 を円満にし,社会生活を円滑にする。
2 公の席や舞台などで,大勢の人に向かって祝いやお礼などの気持ちを述べる
 言葉。
3 受け答え。応対。返答。

(参照 三省堂 大辞林)

 

「あいさつ」はコミュニケーションを図るための手段の一つということは,
誰もがご存知だと思います。

 

先日,塾長が興味深い話をしていました。
現役の教員時代。
広島国際大学の久次 弘子(ひさつぐ ひろこ)教授(パフォーマンス学,コミュニケーション学,演劇学)から,個人的に御教示をいただいた「あいさつ」の話です。

 

注:塾長の考えを交えて語っています。下線部が塾長の勝手な(?)考えです。

 

他者に「あいさつ」をするとき,お辞儀をするよね。

 

腰を折り曲げて,
90度以上前屈みになる格好で深々と行う「あいさつ」は,
あまりよろしくない。自分の胸を相手に向けていないからね。

 

かと言って,
ちょこんと首を軽く曲げ,「オッス!!」ってな感じで,
頷く程度の「あいさつ」は,
却って無礼である。

 

他者(=「あいさつ」の対象者)に正対し,
ぐっと胸を突き出すように背筋を伸ばす。
これは,他者に対して胸を開く,
つまり,「包み隠さない自分」を表現している。
生徒指導でいう「自己開示」のようなものだね。
(「自己開示」はなかなか難しいことだけどね。先生でもできる人はプロだろうね。)
自ら他者に〈つながり〉を求める大前提として,胸を開くんだ。

 

そして,その開いた胸を相手に届けるように,少し突き出し気味に,
かつ,
相手の目を見て,視線を外さず,顎を引いて,45度角程度で中間礼をする。
これは,「包み隠さない自分(の気持ち)」を相手に届けることを表現している。
自ら他者に〈つながり〉を求める行為だね。

 

(塾長注:久次先生,解釈に誤りがあったら,誠に申し訳ございません。)

 

上述している「あいさつ(お辞儀)」の仕方は,
私が働いていた大手デパートでも取り入れられていました。

 

その上で,塾長は昔の教員時代を懐かしむように,つぶやいたのです。

 

いろいろな学校が登下校時に「あいさつ運動」(校門での指導)を行っている。
「あいさつ運動」自体は,地域の方々のご協力を得ながら行う場合も含め,
深い意義のあるものだと思う。

 

また,校門での指導を兼ねているから,
服装指導もしているし,
観察法によって,登校してくる一人ひとりの児童生徒の,
その日その日の様子を伺い知ることもできる。

 

しかし,その「あいさつ運動」の場が,
単に服装指導等だけの場として形骸化していないかと気になる。
当然,服装指導は大切だ。
児童生徒を観察することも重要だ。
やるべきだ!!
児童生徒を良くするためだ!!

 

だが,何人の児童生徒や先生たちが,
〈あいさつ〉の意義を理解して,その場にいるのだろうか?

 

仮に,すべての児童生徒や先生たちがそれを理解し,
「〈あいさつ〉の場」を形成しているならば,
服装指導一つを取ってみても,
もっと異なった様相が展開されるのではないか?

 

一つ一つの教育活動には法的根拠があるし,
人間の営為の一つ一つとして必ず意味があるのだ。

 

それを知って教育行為(人としての営為)を行うか,
知らないで行うかでは,
行為の在り方そのものが変わってくるのではないか?

 

現状として,〈あいさつ〉そのものが,
家庭の中でさえ,
日常的に,自然と行われなくなっているのではないかと感じます。

 

そのように感じているのは,私だけでしょうか?

 

毎朝,息子と一緒に登校してくれる上級生の男の子がいるのですが,
私は,必ず,
「○○くん,おはよう!!」と〈あいさつ〉をします。

 

はじめは,
返事が返ってきたり,こなかったりしていたのですが,
毎日続けていると,
自然と「おはよう」と返ってくるようになったのです。

 

近所付き合いが難しい現代の世の中ですが,
〈あいさつ〉がコミュニケーションの入り口となり,
より深い人間関係の構築へとつながっていくのだと思います。

 

そんなこと,
確かにありきたりの考えで,当たり前のことなのです。
でも,当たり前のことが,当たり前にできていない。
当たり前のことを当たり前に行うことがむずかしい。
そんな現実があるように思えてならないのです。

 

そして,そのような環境下,
こどもたちは当たり前を当たり前と思わず,
それが当たり前となって日常生活を営んでいる。
さらに,そうした状況が,大人にとっても当たり前となっている。

 

日常の中で,
〈あいさつ〉という初歩的な人間の営為だけど,
でも,とっても大切な営為を,
こどもも大人も自然と身につけられるよう,
まずは,大人がお手本となる必要性を痛感するのです。

 

現代ほど,他者と協同し,助け合うことが必要な時代はないのではないでしょうか?

 

【〈あいさつ〉は人の心を開く】

 

現役教員時代の塾長には,もう一つの信念がありました。

 

それは,

 

「(自然を含めた)他者とのつながり(絆)」を大切にすること。

 

生徒さんたちに,ずっと語り続けてきたそうです。

 

人として大切な「コミュニケーション(=〈つながり(絆)〉)」を,
まずは我が家で継続して取り組んでいきたいと思います。

 

 

人と人とをつなぐ「あいさつ」―〈つながり〉を求めて―

【受賞を喜び,地域で見つけた幟に飛びついた息子と娘】

ページの先頭へ戻る